ミャンマー現地レポート2:見えてきたもう一つの厳しい現実

2日目の1月2日はもう一つのパートナー団体であるKSWDC(Karrenni Social Welfare and Development Center)を訪問。今回の支援を受けた地雷被害者のひとり、TharWaさんにお話を聞くことができました。

TharWaさん

 

地雷の被害にあったのはいつ頃ですか?

1988年の時、学生運動に参加していたんだ。高校を卒業したばかりで高校生を先導する学生リーダーだった。その後、他の学生リーダーにならって、カヤー州のタイ国境にあるジャングルに潜伏して活動をするようになった。その時、カヤー州の民族軍に合流して、2年間戦線にも何度も向かった。1991年、戦線に向かう途中で地雷の被害に遭ったんだ。その後、タイ側に逃れて足を切断することになった。

その後、どう過ごされていたのですか?

タイの難民キャンプに身を寄せて、キャンプの中で活動する援助機関のボランティア教員になって15年間働いたよ。その後、障害者支援をする団体でも4年間活動した。難民キャンプで過ごす中で、アメリカへの第三国定住を検討して一度、2016年に申請したけれど、申請が通らなかったよ。2017年も再チャレンジしたんだけど、5月に両親から国際電話がかかってきてね。両親が深刻な病気で介護が必要な状況ということだった。それでカヤー州に戻ることにしたんだ。

他のご家族の方たちは?

4人兄妹がいるけれど、妹たちは皆結婚して外に出てしまっていて、弟はマレーシアにいる。自分しか介護できる人がいないというので、悩んだけれど、第三国定住をあきらめて帰還を選んだ。いま、ここ(カヤー州)に戻ってきて7カ月が経つよ。UNHCR(国連難民弁務官事務所)からは帰還後の支援の手続きを教えてもらって申請しているけれど、今の所、手に入れたのは毛布とやかんだけ。約束された食料や洗剤や救急キットは受け取れていない。2日前にようやくIDが取得できたところ。

KSWDCのことはご存知だったのですか?

村に戻ってきてほかの住民が私のことを見て団体(KSWDC)のことを教えてくれた。KSWDCのスタッフに会って、自分の境遇=地雷の被害に遭った頃から難民キャンプを経て、両親の介護で帰還せざるを得ないことを説明して支援候補者リストに入れてもらった。11月に支援対象者に決まったと連絡があって12月に義足を手に入れたよ。候補者リストは100人を超えていると今日聞いて驚いたよ。その中で選んでもらえてホッとしているし、正直、うれしい。

KSWDCのコーディネーター(左)・義足を手に入れた皆さん(中央3名)と私(右)

 

これからの展望は?

先月、両親は退院したけどまだ働くことはできないから自分が働いて支えないといけない。弟もマレーシアから送金してくれるけど、それでも足りないから仕事を見つけたい。でも、ここで仕事を見つけるのは本当に難しいよ。KSWDCからも、義足を手にすればすぐに仕事に就けるわけではないと言われていたけれど、仕事はあっても建設労働で倍率も高い。義足を手にする前から仕事を探していたけれど断られ続けている。義足を手にしてこの1ヶ月も仕事のチャンスがないんだ。今は正直どうしていいのか分からない。第三国定住を夢見ていたけれど私の場合は帰還を選ばざるを得なかった。まだ将来のことまで考えられなくて今日一日をどうしのいでいくのか。それだけだね。

KSWDCでは、支援を求める地雷被害者のインタビューに時間をかけています。家庭の状況、生計の逼迫状況などを考慮して慎重に支援対象者を選んでいます。選ばれた支援者と話をするときも、「過度の期待を抱かせないようにしている」、とのこと。「義足を得たら絶対幸せになれる」と大きな期待を寄せますが、その後も、仕事が得られなかったり思っていたよりも動けないといった状況に悩む地雷被害者も多いと言います。KSWDCも「雇用を提供できるわけではないけれど、支援が終わった後もこうして定期的にあって、悩みを聞いたり不満を吐き出してもらう機会を設けています」とのこと。

インタビューを終えて「じゃ、また仕事を探してくる」と言ってバイクを走らせました。

バイクにまたがり「仕事を探しに行ってくる!」とTharWaさん

 

今回皆さんから大きな力添えをいただいている一方、もう一つの厳しい現実を見た気がします。TharWaさんの後姿を見送りながら、支援で終わるだけでなく支援者同士が出会う機会が定期的に持てるような「場づくり」も同時に必要なのだと強く感じました。
(下田)

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