イタリアで対人地雷およびクラスター爆弾製造企業に対する投融資禁止法が成立

石井由紀子 JCBL会員

2021年 12月 2日、11年におよぶ4度の議会への法案提出を経て、イタリア連邦議会下院はついに対人地雷およびクラスター爆弾製造企業への投融資を禁止する法案を全会一致で可決しました。今回イタリア・キャンペーン代表のジュゼッペ・スキアベッロ氏に直接インタビューする機会を得たので、その一部をここに共有します。なお、インタビューの全容はJCBLのホームページおよびFacebookに動画を掲載しています。

■投融資禁止法が成立するまでの過程

このプロセスが始まったのは、2010年イタリアがクラスター爆弾禁止条約(以下、オスロ条約)に批准する前です。上院の財務委員会に法案を提出しましたが、財務委員長により阻止されました(委員長がこの法案に反対の政党員だったため)。よって我々は下院へ提出することにしました。イタリアでは上院と下院の両院で法案が通らないといけません。2013 年に初めて下院の財務委員会に提出されましたが、内閣が解散となり法案の審議も中断されてしまいました。その後、再び法案を提出するのは 4 年の歳月を費やしました。イタリア中央銀行、Ivass( 保険監督機構 )、Covip( 年金基金監督委員 )、theMEF( 経済・財政省 ) の4つの監督機関の聞き込みなどに時間を要したからです。

2017 年には下院を通過しそうでしたが、前文が抜けているという技術的な問題で再度下院での審議をやり直すことになりました。そのような中、内閣は任期満了につき解散となり、また新たな 4 年が始まりました。監督機関はこの法案に形式上の大きな間違いがあることを知りながら、そのまま議会に送るよう言い、審議過程を遅らせた張本人だったことが判明しました。我々はこの問題を議員たちに提示し、2021 年 12 月 2 日法案は全会一致で可決されました。12 月 22 日大統領が署名し、官報に掲載され、本法律は公布、12 月 23 日に施行されました。

■議員へのアプローチ

主に地雷問題や締約国会議にも精通している下院議員にアプローチしました。オランダの NGO の PAX が調査した Stop Explosive Investment に記載されている大変貴重で正確なデータを使い、議員および金融機関やその監督機関を巻き込んでいきました。また政党の違う議員一人ひとりを理解者にしていくために、「イタリアでこの法案を成立させることは制限を生むことではなく、反対にグッドプラクティスを生むことである」と説いていきました。徐々に議員たちも勉強し、この議題は議会内で知られるようになっていきました。情報の出し方は簡潔に、しかし正確なものとしました。数字、日付、クラスター爆弾製造業社名など。これらの情報が実に功を奏しました。

■法案が通った決め手

決め手となったのは監督機関の姑息な姿勢が露呈したことです。監督機関は実際にはこの法案が成立して欲しくないと思っていました。なぜならば、監督機関は外部で決められた規制に従うのではなく、自分達の決めるやり方で進めたいと考えていたからです。そのために彼らは議員たちに「この法律を施行するには現実的な問題がある」と、誤った情報を流しました。一方、我々は金融機関の専門家たちを通じて、彼らの言い分は正しくないことを証明しました。それによって、議員たちは監督機関が提出した情報が正確ではなく、法案通過を妨害するための虚偽の申告だったと確信しました。そして、監督機関のあげる理由は受け入れられないとし、法案通過への道を開きました。

■日本でアクションを起こす際のアドバイス

我々ができる最良のアドバイスは、投融資禁止を訴え続けることです。なぜならば、この問題について話すこと自体に大きな意味があるからです。もちろん目的は法律を成立させることですが、投融資禁止を達成するために地雷やクラスター爆弾の問題を訴え続けることは、議員へのロビー活動やアドボカシー活動をする上で大事な土台になるからです。

インタビュー後記

11年かけて達成できたのは、議員、NGO、弁護士、プロボノのイラストレーター、会員の方々等、協力してくれる仲間の存在が大きかったとのことでした。JCBL でも 2017 年 5 月に ICBL のフィロズさんと PAX のマイーケさんを招き、PAX のクラスター爆弾への投融資に関する調査報告書の内容を記者会見や議員の方との院内集会で発表しました。メディアの注目も集め世論は高めることができましたが、法整備には至りませんでした。預金している私たち一人ひとりの意識が変わることも、このキャンペーンの成功に繋がります。みなさんの預金先の動向も引き続きウォッチしていてください。

 

 

 

オタワ条約成立からの25年を俯瞰してみる

目加田説子 JCBL 副代表理事

 2022 年 3 月 1 日、対人地雷禁止条約(オタワ条約)が発効して 23 回目の記念日に、JCBL 主催のオンライン・セミナーを開催した。今年は「地雷禁止国際キャンペー
ン(ICBL)」誕生から 30 年、オタワ条約成立と JCBL 発足から 25 年、という節目の年にあたるため、JCBL では年間を通じて様々な企画を実施していく予定だ。その第一弾として「オタワ条約成立から 25 年――その軌跡と課題」と題して筆者が話をさせていただいた。その内容は、地雷対策の成果というよりはむしろ、この 25 年間を振り返ることに軸足を置いたものだった。ここではその概要を記しておきたい。
 

■活動の初期

 1989 年にベルリンの壁が崩れたことをきっかけに、世界は米国とソ連が対立する冷戦時代に終わりを告げ、新たな時代に突入した。1990 年に東西に分断されてい
たドイツが統一され、その翌年にはソビエト連邦が崩壊した。米国が唯一の超大国となり、世界は一気に民主化されるという空気が支配的になった。
 
 「人間の安全保障」という概念が国連文書で初めて登場したのが 1994 年(人間開発報告)。環境や感染症(当時は AIDS やエボラ等)、難民や人口問題等々、超国家的課題が強く意識され、国家よりも一人ひとりの個人の人権・尊厳こそを大事にしよう、そして、その為には非軍事的な手段を用いるしかないという共通認識が深まった。
 
 国連は 92 年にリオで開催された地球サミットを皮切りに、人権、人口、社会開発、女性、居住といった冷戦時代には十分注目されてこなかった課題を次々取り上げ、国境を超えた対応を促していった。同時に、NGOを代表とする市民社会が主権国家や国際機関の傍観者という立場からパートナーへと“昇格”し、問題解決に向けて積極的にかかわることが奨励された。背景には、旧ソ連の解体及び中央アジア諸国の独立と民主化、独裁体制下にあったフィリピンや韓国、軍事政権が長らく続いていた中南米諸国等が相次いで民主化していったことがある。
 
 NGO の専門知識や経験は、政府や国際機関がもちえない貴重なアセットとして重視されるようになった。活発化した世界各地の市民社会の存在が「地球規模の連帯革命」と称され(94 年)、国際政治の中で政府中心主義から市民社会中心へと“パワーシフトが起きた”(97年)との賛辞が送られた。
 
 ICBL が誕生し、活動を拡大させながら対人地雷禁止条約(オタワ条約)を成立させたのは、そんな時代背景があってのことだった。ただ、この間全てが順風満帆だったかといえば、そうではない。例えば、1998 年春にはインド・パキスタンが核実験に踏み切ったことで日本では外務省がその対応に追われ、オタワ条約の批准手続きは停滞した。それでも日本が条約発効に間に合うよう批准を済ますことができたのは、首相だった故小渕恵三氏の政治家としてのこだわりがあったからだろう。
 
 だが、概ねこの時代は民主化の促進に伴って市民社会の役割が増大し、世界は「力の支配」から「法の支配」へと進展していくという希望的楽観論が広がっていた。1998 年には戦争犯罪人を裁く国際刑事裁判所(ICC)の設立が決まり、「やり逃げ」は許されない、罪は法の下で裁かれ償わなければならないという意識が進んだ。
2000 年には韓国の金大中大統領が対北朝鮮の「太陽政策」を進めたことによって初の南北首脳会談が実現し、東アジアでも宥和ムードが高まった。朝鮮戦争以降、断絶していた京畿道の鉄道が再開されるに伴い、周辺の地雷除去も進んだ。
 

■一気に変わった空気

 しかし、そんな時代は長く続かなかった。2001 年 9 月、米国の同時多発テロで、世界は一気に冷や水を浴びせられた。米国は直ちにアフガニスタン空爆で「報復」し、実際には存在しない大量破壊兵器の危険除去を口実に同盟国と共にイラク攻撃に踏み切った。ニューヨークのシンボルの一つだった世界貿易センタービルのツインタワーが崩壊する映像が国内外に与えた衝撃は計り知れず、対テロ戦争が正統化される機運が生み出された。世論も報復を当然視する方向に流れていった。力をもって報復する行為が求められ、様々な武器による武装が当然視された。たとえ対人地雷のように小さな兵器であっても、手放すのはもってのほかという空気が広がっていった。
 
 そうした状況下でも、2008 年にはクラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)が成立した。むしろ、そうした状況下だったからこそ、実現したのかもしれない。クラスター爆弾は米国や同盟国によりアフガニスタンでもイラクでも使われた。2006 年のイスラエル・ヒズボラ戦争でも、レバノン南部で大量に使用され民間人の被害が拡大し続けた。対人地雷と同様に全面禁止するべきだという世論の声が後押しし、オタワ条約と同様の過程を経て条約は成立した。
 
 しかし、オスロ条約が春に採択された年の夏、ロシアはグルジア紛争でクラスター爆弾を用いた。その後2014-15 年にもウクライナで使用し、シリアにも軍事介入してクラスター爆弾を使用した疑いがもたれている。
現在進行形のウクライナ侵攻においても、ロシアが再度クラスター爆弾を使用したことがヒューマン・ライツ・ウォッチ等の調査で確認されている。その数日後には、ウクライナ国内に取り残されている人たちが国外に逃れるための「人道回廊」に地雷を埋設したと、欧米のメディアが伝えた。
 
 “目的は手段を択ばず。”国際法で禁止されている兵器だろうと国際人道法で禁止されている行為だろうと、政治目的を達成するためならば、どのような手段を用いてでもやり遂げるのか。政府や国際機関、そして市民社会が数十年間こつこつと積み上げてきた成果を嘲笑うかのように、プーチン大統領はためらいもなく、非人道兵器の使用命令を出したのだろうか。
 
 時として、むき出しの暴力を前に、国際法は無力に、規範力は頼りなく見えてくる。それでもオタワ条約と歩んだ 25 年間は私たちに、人道的見地に立ってルールを作り、地道に実践することで成果は確実に重ねられること、法を超える規範力によって現実を変えられることを教えてくれている。単に兵器を禁止・規制するだけでなく、人道主義に基づいて被害者を救済し、さらなる被害発生の防止を重視する条約は昨今では「人道的軍縮」と呼ばれるようになり、その流れをくむ新たな範疇の条約として核兵器禁止条約も誕生している。逆風の中にあっても、人道主義や法の支配を重視する価値意識が再生していったと判断できるだろう。
 
 振り返ってみれば、ICBL の 30 年は時代を先取りする試みだったのかもしれない。例えば、SDGs の「誰一人取り残さない」という基本姿勢は人道的軍縮と親和性が高く、包括的な取り組みは、地雷を「軍縮」から「人道問題」と多面的にとらえ直したオタワ・プロセスがその手本を示したとも言えるだろう。また、今では日本でもすっかり浸透した ESG 投資(環境・社会・ガバナンスに配慮した投資。非人道的兵器を生産し続ける企業及び投融資を継続する金融機関の倫理観を問い、生産元から資金源を断つという趣旨)は、クラスター爆弾のキャンペーンが成功例となったといっても過言ではないだろう。
 

■これからも

 2019 年、JCBL が企画したスタディツアーで韓国を訪れた際、「韓国対人地雷対策会議(KCBL)」の創設者のひとりでもある金昌洙 ( キムチャンス ) 氏にお目にかかる機会があった。金昌洙氏は当時、文在寅政権で国家安保室統一政策大統領秘書官を務めていた。文在寅大統領の対北融和政策により、朝鮮半島で一気に和平に近づくのではという期待感が高まっていた時期だ。金昌洙氏は、国内外の情勢変化のたびに様々な憶測が飛び交う中で「大切なことは、情勢に一喜一憂せず、粛々と進展を図るべく努力を重ねることである」と語っていたことが強く印象に残っている。主に南北関係を念頭に置いた発言だったが、今日の私たちの営みにも深い示唆を与えてくれていると思う。願うだけでは何も変わらないけれど、勇ましい声を上げるだけでも何も変わらない。大切なことは、やるべきことを粛々と、黙々と積み重ね力を蓄えておくことである。
 
 歴史は必ず、動く。どのような逆風が吹くときであっても、好機が訪れた時にそれを十二分に活かせるように備えておく。市民社会も、常に「臨戦態勢」で。それがこの四半世紀の大きな教訓であるように思える。
 
*長崎大学の核兵器廃絶研究センター(RECNA)が発行するポリシーペーパーに「人道的軍縮と市民社会:韓国の対人地雷対策の検証」を投稿しました。条約に加盟せずとも具体的成果が積み重ねられてきた「韓国対人地雷対策会議(KCBL)」の活動等をまとめています。次の URL から無料でダウンロードできますので、是非ご覧ください。
https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/bd/files/REC-PP-14_20220314.pdf 

ミャンマーの国内避難民への緊急支援

清水俊弘 JCBL 代表理事

 2021年2 月に発生した軍部によるクーデター以降、各地で起きている軍政と民主化を求める市民との対立は激化の一途をたどり、収束の見込みが立たないまま今に至る。特に地方では、地域の民族武装グループとの激しい衝突が起きており、多くの周辺住民が避難生活を余儀なくされている。JCBLが2017年より義足支援を続けているカヤー州でも深刻な被害状況が報告されている。

■カヤー州でおよそ20万人の市民が避難

 カヤー州で避難民を支援しているカレンニー族の人権グループによると、同州の州都であるロイコーや第 2 の町デモソでは軍政の襲撃、空爆、砲撃、そして住宅の焼き討ちなどによって1月時点で約 12 万の市民が教会や森に避難、また 3 万人がシャン州南部に、1 万人がタイのメーホンソン県に逃れている。また直近ではロイコーの全 15 区のうち 12区の住民のほとんどが戦闘から逃れ、多くの病院も機能しなくなっているとの情報もある。国連人道支援調整事務所(UNOCHA) は、2021 年 5 月以降、ロイコー地区にある住宅、教会、修道院、学校を含む約 650 の建物が戦闘で焼失したと報告している。こうした状況の中で、人道支援団体による避難民への食料、その他の物資支援が困難となってる。同人権グループの報告では、カヤー州では現在、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、世界食糧計画(WFP)、赤十字国際委員会(ICRC)などの人道支援機関からの救援物資の提供は軒並み停止されている。

■ JCBL の緊急支援

 そのような中で、JCBL としても、カヤー州の人々を見放すことはできないとの思いを強め、現地コーディネーター(現在ヤンゴンから郊外に避難中)と連絡を重ね、タイの NGOを経由した送金ルートを確保することで、必要物資の提供を試みることになった。外国からの送金は軍政にすべてチェックされ、用途によっては没収、凍結の可能性もあるからだ。とは言え、リスクを避けるために、まずは少額の送金を試みた。12 月中旬にタイの銀行に送った資金は、ミャンマー国境(タイ側)での人道支援を行っている地元人権団体に届き、その組織を経由して、国境ミャンマー側のコーディネーターに届けてもらった。そして、コーディネーターからカヤー州で義足工房を運営するパートナー団体に国内送金をし、現地に届いたのは1月中旬だった。その時点では、まだロイコーとの交信は可能で、届いた資金で物資を調達し、緊急支援を開始するというところまでは確認できた。

支援内容は、以下の通りである。

1.避難生活者への衛生キット(タオル、石鹸、消毒液など)の提供

2.歩行困難な両足欠損者に対する車椅子(数台)

3.地雷犠牲者に対する松葉杖(25 本)

4.上肢欠損者への義手(25 個)

この後、「購入した物資の領収書を整理している、皆さんのサポートに感謝する」との連絡を最後にコーディネーターとロイコーのパートナーとの交信が途絶えている。

 2月18 日にコーディネーターから届いたメールには、「詳細な報告を届けることが出来ず申し訳ありません。カヤー州とシャン州南部での衝突が増加する中、人々はインターネットや携帯電話の信号がないジャングルに隠れています。私はすべての通信チャネルで呼びかけています。連絡が取れたらすぐに報告します。」とあり、切迫した状況が伝わってきた。2 月末現在、コーディネーターが毎日何度も交信を試みているが、連絡が取れない状況が続いている。今は報告よりも彼らの無事を祈るしかない。

対人地雷の除去期限を迎えるカンボジア

林 明仁 JCBL 会員

1. カンボジアの地雷原の状況

 2025 年 12 月 31 日、カンボジアはオタワ条約で定められた対人地雷の除去期限を迎える。今から 4 年弱の間に、カンボジアは現在判明している主な地雷原について地雷を除去するか調査を通して地雷がないことを確認しなければならない。これまでカンボジアは、世界的にみても例のないスピードで地雷の除去を進めてきた。そのカンボジアが期限内の除去完了という目標を達成できるか否かの瀬戸際にいる。

 カンボジアには、2020 年 12 月末の時点で約 800 km2の地雷原が残っている。一年間に除去できる面積が約 100km2 弱であることを考えると、地雷原をすべて除去するには少なくとも 8 年の年月が必要となり、2025 年には間に合わない。ただし、2025 年までの目標達成の可否を判断するにはもう少し検討すべき点がある。以下、押さえておきたい 2 つのポイントについて触れたい。

2. 増減する地雷原

 カンボジア政府が発表した 800 km2という数字は、これまでに実施されてきたベースライン調査に基づいている。ベースライン調査では、地域住民からの聞き取りなどを通して、地雷原の範囲を特定していく。このベースライン調査の質を考えたときに、地雷原が減る可能性と増える可能性の 2 つの可能性がある。

 まず、減る可能性についてみてみたい。ベースライン調査では、限られた時間の中で聞き取りや目視によって地雷原を特定する。そのため、調査の傾向として地雷原の範囲を多めに見積もりやすい。実際に、ベースライン調査が過去に実施された土地で再度調査を実施したところ、地雷原の大きさが当初の報告より小さくなったということも少なくない。カンボジアで除去に従事する一部の NGO は、カンボジアでは国際基準に沿った地雷原の分類ができていないため、地雷原の大きさが過大に評価されているとしている。これらの団体の推計では、地雷原の大きさは政府が報告した半分程度の 400 km2になる。

 反対に地雷原が増える可能性もある。実際に、2019 年から 2020 年にかけて約 75 km2の新たな地雷原の報告があった。経済活動が活発になると、人々は新たな居住地を求めてこれまで使われていなかった土地に移り住む。ベースライン調査は、基本的に人の居住地周辺で実施されるため、人が住んでいなかった土地に関する情報はない。そのため、新たな居住地周辺で住民が新たな地雷原を発見するということが発生する。

 このように、800 km2という数字自体が今後変わる可能性は少なくない。この数字が上振れするか下振れするかで目標達成の実現可能性が変わってくる。

3. 除去能力の向上

 もう一点、地雷を除去する能力の向上は、除去面積の拡大をもたらし、除去目標達成の可能性を高める。カンボジア政府が 2,000 人の除去員の増員を掲げてきている他、地雷原の状況によっては人間より短時間で地雷を探知出来る地雷探知犬も活用され、地雷を効率的に発見する探知機の開発も進んでいる。2025 年までに残された時間は多くはない。まずは地雷原の大きさを正確に把握すること、そして地雷対策を担う人材の確保と能力の強化を可及的速やかに図ることが求められる。

JCBL事務局だより

◆今川元大使の逝去に寄せて

 JCBL創設期の世話人の一人だった今川幸雄元在カンボジア大使が昨年12月30日に亡くなられました。

 今川大使は、JCBL前代表の北川泰弘が1960年代に電電公社の社員としてプノンペンに駐在していたときからの友人で、当時はクメール語の研修生として8年も現地にいらしたと伺いました。それから30年後の90年代、私が日本国際ボランティアセンター(JVC)のカンボジア駐在で赴任していたときは、カンボジア大使館再開後初の在カンボジア日本大使として、またクメール語を話すカンボジアのエキスパートとして、カンボジア復興支援の陣頭指揮を執っていらっしゃいました。

 NGOの活動にも深い理解を示していた大使は、カンボジア復興支援国会合へのNGO代表団の参加を支持し、東京とパリで交互に開催された国際会議には毎回4人のNGO関係者が参加して意見を述べる機会が提供されました。現地の事情をよく知る大使は、カンボジア復興の大きな障害であった地雷の問題にも胸を痛め、再開した政府開発援助(ODA)による地雷除去や犠牲者支援にも力を入れていらっしゃいました。96年に始まったカナダ政府主導による対人地雷全面禁止条約の協議では、条約成立に消極的な態度を示していた日本政府の中で、対人地雷の全面禁止を支持していた大使の姿勢は一筋の光でした。こうした“現場の声”が政府の姿勢を転換させた一つの要素だったと思います。

 97年にJCBLが発足してからしばらくの間、世話人として活動を支えていただきました。カンボジアにおける地雷除去は着実に進んでいますが、新たな犠牲者がゼロになる日が来るまで、空から見守っていただければと思います。

 今川大使の少し高い声と、流暢なクメール語が今も耳に残ります。心より哀悼の意を表します。

代表理事 清水俊弘