Global Day of Actionシンポジウム
第1部:今、クラスター爆弾禁止のためにーサバイバーの視点からー

第2部:日本の選択

日時:2008年4月19日(土)14:00-17:00 
会場:カタログハウス・ホール


第1部:今、クラスター爆弾禁止のためにーサバイバーの視点からー

清水俊弘(JCBL運営委員):本日はダブリン会議のちょうど1ヶ月前の「グローバル・デイ・オブ・アクション」、クラスター爆弾禁止のため世界中で声をあげよう、という日です。はじめに、セルビア大使館のヤンコビッチ公使をご紹介します。

ヤンコビッチ公使:こんにちは。セルビア大使館のヤンコビッチと申します。ご存知の通りセルビアは1999年にNATOの空爆を経験していますので、戦争はどれだけ悲惨なことであるか、クラスター爆弾はどれだけ危険な物であるかよく味わっています。本日はカペタノビッチさんの話で、クラスター爆弾によって兵士だけではなくて一般の市民もどんな危険にさらされているか、よく理解いただけるかと思います。そして、セルビアもオスロ・プロセスのメンバーなので、皆さんにクラスター爆弾禁止のためにご協力をお願いしたいと思っています。

カペタノビッチ氏:私は、NATOによる空爆が始まった1999年3月から事故に遭った2000年までクラスター爆弾の処理に携わっていました。クラスター爆弾は、とても不安定で敏感な兵器です。世界では高度な教育を受けた専門家でさえ事故に遭っているのですから、よく知らない市民がどれほどの被害を受けているか、おわかりになるでしょう。

清水:実際の市民の被害は?

カペタノビッチ氏:犠牲者の95%以上が一般市民だという報告があります。本来標的にした敵軍の被害は5%に及ばないということです。私はかつて市民の犠牲が少しでも減るようにという思いで、軍の爆発物処理班の仕事をしていました。そして今も以前と同じ気持ちで、市民に犠牲者が出ないようにと願ってこの活動をしています。

クラスター爆弾は、普通は子爆弾の発火装置が働いて、地面に落ちた時に爆発しますが、中には時限装置で時間がたってから爆発するものもあります。これはいつ爆発するか分からないので、爆発物処理班が容易に近寄れません。またセンサー付きで人が近づくと爆発するものとか、化学反応によって爆発するもの、人間の微量の静電気を感じて爆発するものなどがあります。敵は投下したクラスター爆弾がどんな発火装置なのか説明しませんから、爆発物処理班はその種類を判別して作業しなければならず、とても困難なのです。

私はいつも、悪いクラスター爆弾も良いクラスター爆弾も、安全なクラスター爆弾も危険なクラスター爆弾もなく、すべてのクラスター爆弾が危険で悪い物だと申し上げています。とりわけ危険なのは、この形と色が子どもたちにはとても魅力的で、子どもたちがこの爆弾を見つけると、興味半分で近寄って触れてしまうのです。私が参加したすべての国際会議には、クラスター爆弾の専門家も多く参加していましたが、彼らの注目をもっとも集めたのがBLU97型クラスター爆弾で、もっとも危険な種類の1つです。

クラスター爆弾は決して防衛的な兵器ではなく、一義的に優れた攻撃的な兵器です。クラスター爆弾を自国領に投下するような国はあるでしょうか。そこに暮らす市民が一時的に避難したとしても、戦闘後に彼らは家に戻らなければいけません。しかし不発弾の処理には何年もかかりますから、すぐには帰れません。私の知る限り、世界で一つも自国にクラスター爆弾を防衛目的で投下した国はありません。結果的に自分の国の国民を傷つける事になりますから。

清水:この1週間、日本で多くの人に会いましたが、反応はどうでしたか。

カペタノビッチ氏:衆参両院の議長は、個人的な考えではありましたが、全面禁止に同意してくれました。彼らから国会でこの考えが広まることを祈っています。名古屋グランパスエイトのストイコビッチ監督は、メディアの前でクラスター爆弾全面禁止を支持すると話されました。彼の出身地のセルビアのニシュでは、1999年5月7日にNATO軍に夜クラスター爆弾の大規模な爆撃があって、14人が亡くなり、数十人が負傷しましたから、クラスター爆弾がいかに危険で恐ろしいかはご存知でした。彼は日本でもセルビアでもとても影響力のある有名な方ですので、大いに期待しています。

質問:ご自身が被弾された時の状況と、どのようなリハビリをされたのか教えてください。

カペタノビッチ氏:2000年11月9日、私はセニッツァ郊外のトゥビーニエ空港に、空爆後の状況調査に行きました。そこで、6、7個のクラスター爆弾が落ちているのが見えたので、同僚を避難させました。藪の中でよくみえなかったので、ちょっとかきわけたその時に、突然爆発しました。その瞬間、手足が飛び、鼓膜が破れ、目は見えなくなりました。頭と肺にも傷を負って、体中に火傷を負いました。しかし意識があったので、同僚を呼び、彼らが救急病院に連れて行ってくれましたが、そこには外科医がいなかったので、救急車で1時間半くらいのウジッツァまで運ばれました。その間、出血がひどく、私は運転手に「あとどのくらいかかるのか」と何度も聞きました。運転手は「あと少しだから我慢しろ」と何度も言いました。まさにウジッツァの病院に入る時に心肺機能が停止しました。すぐに蘇生措置が行われて、手足の切断手術を受けました。私は軍の兵士でしたので、ベオグラードの軍病院に搬送され、事故から4日間は昏睡状態でした。その後4年間に25回を越える手術を受けました。私は、軍病院の医師たちと一緒に入院していた人たちの理解に感謝しています。医者は、被害者の扱いをよく知っていました。4年間の入院でしたが、治療は3年で事実上終わっていたんです。最後の1年間は、週末は家に帰るという具合に、ゆっくり外の社会に慣れるようにしてくれました。治療が終わってすぐに家に戻った負傷者の中には、家にこもってしまうと行った悲惨なケースもあります。しかし私は、ゆっくり外の社会になれることが出来ました。そのおかげで、今日このように活動することが出来ています。


クラスター爆弾の子爆弾(撮影:清水俊弘)

第2部:日本の選択 へ続く