JCBL / KNHWO 支援対象者(義足支援)へのインタビュー
2019年11月13日:ロイコー
インタビュー1:マ・リアさん(34歳・女性)
2005年12月、カヤ―州とカエン州の境のジャングルで、20人ぐらいの仲間と共に民族解放戦線の兵士たちに食料を運んでいた時に地雷を踏んだ。夕方5時頃のことだった。爆発で足の甲から先が吹き飛ばされた。近くにいた仲間がロンジーで担架を作って街中のクリニックまで運んでくれた。クリニックについたのは夜中の12時だった。そこで応急措置をしてもらって翌日ロイコーの病院に行き、そのまま入院して5カ月経った頃、医師からマンダレーの義足工房を紹介された。早くに両親を亡くしていた彼女は、親せきや近所の人たちからお金を借りて、車で一晩かけてマンダレーまで行った。そこに2週間滞在し、義足を付けてもらった。義足に掛かったお金は15万チャット(約150ドル)、滞在費も含めると合計で80万チャット(約700ドル)も掛かったという。その後、知人からお金を借りて小さな雑貨屋を始め、なんとか生活ができるようになった。2012年に結婚。4歳の娘と3歳の息子がいる。13年前にマンダレーで着けた義足が傷んできて、歩くと痛みもあるので、KNHWOに新しい義足をお願いしている。
インタビュー2:コー・ジョウンさん(42歳・男性)
どの地雷汚染国においても、事故生存者(サバイバー)の社会復帰は最重要課題の一つだ。コ・ジョウンさん(42歳)は、2005年にタイ国境のジャングルで民族解放戦線の兵士として行動中に地雷を踏み、左足の足首の上まで吹き飛ばされた。28歳の時だった。地雷を踏んだのは午後3時頃だったという。一緒にいた仲間にタイ側まで運んでもらい、そこで会ったタイの国境警察の人がメ―スリンの病院まで車で載せて行ってくれた。病院についたのは翌日の夕方だった。その後、シャン州の軍病院に移送され、そこで最初の義足をつけたが、大きさが合わず痛みがひどくなったので、6カ月で次の義足に変えた。足を失ったショックからなかなか立ち直ることができず、次第に酒を飲むようになった。気が付いた時には中毒状態になり、いつも死ぬことを考えていたという。そんなある日、クリスチャンの叔父と叔母に教会に連れていかれたことをきっかけに酒を絶ち、生きようと思うようになった。まず、義足での車の運転を練習し、免許を取得した。左足側が義足なので、義足でクラッチをコントロールすることになる。すぐに感が掴めたという。今は通信塔の建設資材を運ぶ仕事についている。KNHWOの義足に変えたのは3年前。身体にしっくりとなじみ、運転にもストレスがないという。脳に腫瘍が見つかった息子の手術代を稼ぐために、日夜全国各地に資材運びをしている。ストレスのない義足は仕事の集中力を高めるだけでなく、生きる自信につながるのだと思った。
インタビュー3:マ・グレットさん(40歳・女性)
1996年3月、上述のマ・リアさん同様、カヤ―州のカイン州の境界付近のジャングルで、民族解放戦線の兵士に食料を運んでマ・グレットさんは、用を足すために草むらに踏み込んだ時に地雷を踏んだ。午前7時のことだった。一緒にいた10人の仲間達が車道まで運んでくれたが、道までたどり着いたのは翌日の午後3時だった。そこで車を待ち、通りかかった車に乗せてもらい、ロイコーの病院に着いたのは翌朝の10時だった。当時まだ15歳だったマ・グレットさんは、恥ずかしさと悲しさでおよそ1年家の外に出ることができなかった。16歳になったある日、このままではいけないと勇気を出して、松葉杖で再び学校に通うことになる。その時、先生にヤンゴンの病院を紹介され、そこで最初の義足をつけてもらった。なんとか、高校を卒業した彼女は、家族とともに市場で野菜などを売って生活するようになる。そこで、野菜を持ってくる男性と出会い、結婚を申し込まれる。しかし彼女は、自分の障害が相手の負担になると思い、なかなか返事ができなかったという。結局、相手の熱意に押される形で結婚を決意、今は15歳の息子を筆頭に6人の子どもがおり、そしてお腹には7人目が七カ月を迎えている。義足で遠くまで行くことは大変だが、必要なことはなんでも子どもたちがやってくれるので助かるという。彼女の村には5人の地雷犠牲者がいる。移動の際などは互いに助け合っているという。
2019年11月14日 ディモソ地区
インタビュー4:ウ・ディチさん(56歳・男性)
今年10月にKNHWOで義足を新しい義足を作ってもらったディチさんは、元政府軍の兵士だ。1990年にジャングルを移動中に地雷を踏んだ。一人だった。遠くで爆音を聞いた仲間たちが駆け付け、彼をロイコーの病院まで運んだ。その後ヤンゴンの軍病院に移送。その病院では3回義足を作ってもらった。しかし、いつも大きさが足に合わず、いつも痛い思いをしていた。KNHWOの人に相談すると、彼らは「もう戦争は終わったのだから、政府軍も民族軍も関係ない」と快く義足の政策を引き受けてくれた。新しい義足は体の一部のように違和感なく使えてる。おかげで庭でたくさんの野菜を育て、また週に2回、近くの市場で掃除をして賃金をもらっている。子どもは27歳の息子を筆頭に4人、妻とも仲良くやっている。庭には彼と息子が植えた様々な果樹や野菜が所狭しと育っている。足にしっかりと合う義足は、人が元来持っているバイタリティを引き出している。
インタビュー5:ウ・チョティさん(51歳・男性)
チョティさんは、昨年(2018年10月)、ディモソ地区の地雷犠牲者のインタビューで同地区を訪れた加藤美千代さんと会ったことをきっかけにKNHWOの義足工房のことを知った。2010年3月26日、カヤン州のジャングルを5人の仲間と移動中に地雷を踏んだ。足の甲から先を吹き飛ばされた。自分も政府軍の兵士として地雷を埋めたことがあるが、自分が踏んだ地雷は恐らく民族軍の兵士が埋めたものだと思う。なぜなら、自分たちは埋めた場所が分かるように周囲の木などに目印をつけるし、地図に記録を残していたからだという。踏んだ場所がベースキャンプの側だったので、すぐに仲間が来てくれた。応急処置のあと、1日経ってからかヤン州の軍病院に運ばれた。自分たちがベースとしていたキャンプと病院の間には広い地雷原があったので、そこを超えるのに11日間かかった。事故のとき、奥さんは妊娠中だったので、心配させたくなくて1か月間は知らせなかった。今は妻と二人の子ども達(22歳の息子と14歳の娘)の4人で農業をやってくらしている。新しい義足のおかげで農作業も楽になったという。KNHWOの義足は軍病院の義足とは明らかに違う。ここでも、元政府軍、民族軍の立場を越えて、一人の地雷犠牲者に真摯に向き合う姿勢が垣間見れた。